中中さんの言わんとしたことは、なんとなく「うんうん」って感じでわかるような気もしたのですよ。でも、暗澹は同じです。
暗澹。暗澹。
昨日から今日にかけて、UrocoCity BBSでカチカチに硬直した意見を吐く。
自分では信じるところをいったつもりだが、後味がとても悪い。どうしてこんなに後味が悪いのか我ながら暗澹とする。
ウソばっかりついていたような気分になる。
ああ、もうだめだ。
もう、耐えられない。
二度と討論とか議論など、するものではないな。
そんなタマではないのだから。
黙ってうなずいているのが、一番似合っているし、後味もよいのだ。
「ある」証明と「ない」証明は絶対に「ない」証明の方が難しい。
青空だと思ったら、雨が降った。
古傷、病人、老人が嫌がるこの時期の雨。1年を5季(春、梅雨、夏、秋、冬)にしたい。今日はまったく動けない。ぅぅ。
昨日は「カラスウリ」のために路上で、一時間懐中電灯をたよりに写真を撮っていたら、弟が携帯で「さんまのからくりTV」の時間を教えてくれた。「カラスウリ」の話をしたら驚いていたが、最近植物の趣味ではなにもいわず、自ら写真を持ってきてわたしに尋ねることもある。おじさんなのにカワイイ(*・・*) ポッ
違う部屋でTVの「The Best」を見た。以前はちゃんと拉致問題を追いかけていたのだが、今は政治ねたとしては微妙なのかもしれず、報道はない。有田芳生と湯浅れいこがホームレスの問題とか、まに気の利いたことを言うので贔屓にしていたのだが「紋切り型」に最近はあきあき。それどころか有田芳生のあのよどみのない、センテンスの長い言い方が腹がたってき。口を挟ませない間。議論の技術としての語り。政治的会話技術。とくに「・・・というなかで」という言葉のつなぎが不快。
口癖がとても気になる人と、そうでない人がいるのはなぜだろう。
今夜も、カラスウリが咲いているんだ。
TVが壊れた。貰った自分用のTV。チャンネル修正をしたら、どんどんchが消えていって3chだけになってしまった。
小さいTVはあるけれど、最近は字幕なども読めなくなったので役にたたない。
ない、と思うとそこに青空が広がったような気がした。
ハスの花を撮っていたら、後ろからカップルの声男性:「あ、ジョウロだよ。やっぱり水揚げてるんだよ」「そうねー」と答える女性。
どうしたらこんなにも、ずれるのか。ジョウロと言ったのはハスの実のこと・・・・実話です。
やった!
もうあとは残務けだぁ。
ふふ。疲れたけれど、もう一回フォーマットしなおすもんね。
今はやだけど(>__<)重い感じがしなくなったしよくなってるのだ・・・問題は一個だけだ。(涙)
中中さん。おもしろいですね〜。
ところで、色川武大『怪しい来客簿』は読まれましたか?
あんな本が読みたい。あんな本がいい。
わたしも、彼を天才と呼びたいデス。
石原チンタロウという、いつも目をしょぼつかせた小心者都知事がカラス撃滅作戦なんてことを言い出したと聞いている。
この地方都市にもカラスは多い。
まして「東洋のカルカッタ」、「日本のたんつぼ」と呼ばれ、フィリピンのスラムより酷いといわれるこの町は野良犬とカラスが人間より元気に動き回っている。
今朝も、うるさいカラスの鳴き声で目が覚めた。
裏庭に出てみると、年寄りが入院して無人になった家(この辺りは二軒に一軒がそんな理由の空き家ばかりだ)の屋根に二十羽以上のカラスがなぜか群がっている。
ぞっとした。
なぜだかわからないが、不気味だった。
ガーガーうるさい。
雛でもいるのか? それを野良猫から守ろうとしているのか?
いずれにせよ、黒々として、思ったより大きい。
わかるはずもないだろうが、
「うるさい!」と大きな声を出すと、さーっと浮かび上がって近くの大木に移った。まるで黒装束の忍者みたいだ。
鳴き声はますます大きくなる。
石など投げてもムダなことは投げる前からわかる。
さて、どうするか。
天才というのはこういうものか。さっと閃いた。
A4くらいの大きさの鏡をもってきて、太陽光を反射させカラスに当てた。いやがらせ、である。
これがまあ、カラスも眩しいのだろう、たまらんとばかりに逃げ出した。いっきに五十メートルばかり離れた十階建てホテルの屋上に逃げる。しかし、光の速さにはかなわない。こちらは手元を数ミリ動かすだけで、いっきにそこへ移動する。
ギンギンの太陽光を浴びせられたカラスたちはばらばらに逃げ惑い、それでも一羽一羽アッという間に補足されるので、とうとう目の前からすべて消えてしまった。
我ながら意外なほどの効果に驚く。
うむ。これに改良をくわえてカラス撃退器の特許を取るかな?
いや、カラスだけではない。なんでも使えそうだが…太陽がでてないとな〜。
夜になると待ちかねたように、あるいは若干、苦し紛れに、夜の町にふらふらと出かけていくわけだが、
今日も退屈のあまり昼日中から寝転んで、ぼんやり天井を見ながら夕方にいくだろう飲み屋のママ相手のお喋りのネタを考えていた。
何も考えないでふらっといくことが多いが、こうやって話のネタを前もって仕込むのも面白い。
まずわたしが店のドアを開けて入っていく。
まだ早い時間なので客はだれもいない。
店の女の子もいない。
「あらっ、疲れた顔して」
ママがいう。実際、昨夜はほとんど寝てないのだ。
「ほら、こないだうちの裏にあった空き家が火事になったっていっただろ?」
と内心にんまりしながらも、おしぼりを無表情に使うおれ。
「ええ。あの放火犯人、捕まったんですってね」
「ああ、四十過ぎの無職男らしい。ま、それは結構なことなんだけど、あの家はもともと空き家でね、燃える前と変わらないくら朽ち果てていたんだ」
「そうなの」
黙って生ビールを持ってくるママ。
「そこにずっと以前から住み着いていた野良猫どもがさ、こないだから多分、引越し先を探していたんだろうな。昨晩、おれん家の屋根裏と縁の下にもぐりこんで一晩中ぎゃーぎゃーわめくのよ。これがもう何時間も何時間もしつこくてさ、たまらんのよ」
「発情期かもね」
「そうよ。猫ってのはね、ママ。もう、すげーんだ。とどまるところを知らないの」
「へ〜」下ネタに持っていこうとしているのかどうか、ちらっとわたしをみて曖昧な微笑を浮かべるママ。
三十過ぎ。いしだあゆみ似の痩せ型。目の形は秋刀魚みたい。
これがまあ、商店街では美人で通っているんだが、ちょっと手を出すわけにはいかない。やくざ屋さんの女房だ。しかもそのやくざ屋さんの事務所が真裏にあるときている。
だのに、まあ、いけしゃーしゃとこのママさんは初対面の客にはいつも独身だと言い放っている。
「で、おれはね、朝から猫狩りだ」
またアホなことを言い出した、うんざり、といった顔でわたしを見る。
「裏庭はいわばススキの生え茂る草原地帯みたいなもんだろ。その陰に天井裏や縁の下から追い出した猫がライオンみたいに隠れてやがるんだ。それを礫で狙い撃ちすんだよ。ま、小型ハンターだな」
「ま、かわいそうに」
眉をひそめてみるママ。てめえの亭主がどんな無体なことをかたぎ衆にしていると思うの? おれは寝不足でふらふらしてんだぜ。それぐらいの懲罰は、これは当然だ。
「おれは野球きらい。ラグビーとサーフィンしかやんねえんだけど、五十メートル離れたところを走って逃げる野良公のわき腹に見事命中だ」
「あら、死んじゃったの〜」
「ぼてっいう音がしたけど、飛んで逃げちゃった。これが人間なら血くらい出ていたんだろうけど、ほら腹が、柔らかいクッションみたいなもんだから、猫は。…しかし、次は逃さない。ママ、仕留めたら、猫汁つくってくれよな」
なんて話の展開になるかどうか。
『如何なる星の下に』(高見順)を読む。
これは三回目か。
子供の頃読んだときはインテリの俗物を見下した、あるいは見下すことの巧みさに「うむ」と唸ったものだが、はてさて苦労して大人になると読み方も一ミリほど進歩したものか。
高見順とおぼしき作家である「私」(倉橋)にはやはりあまり魅力を感じぬ。
ますますいやらしいようにも感じる。それより、かれを際立たせる役回りで、まるで卑猥で卑しく描かれている「朝野」なる売れぬ作家志願男がリアルだ。続編では謎の自殺を遂げるのだが、この朝野の俗臭ふんぷんたる「ぐれた」態度に隠された凄絶な孤独が、この謎の鉄道飛び込み自殺によっていっきに浮かび上がる。あるいは高見順、自分で何を書いたのかわかっていたのか? いや、それとも、ほんとうはこの朝野に作者は自分自身投影していたのか?
大衆娯楽映画として一時代を劃した『男はつらいよ』の、どの登場人物に山田洋次は監督の心情を託していたのだろうかと考えたことがある。そんあことはないのかもしれないが、
あるとき、ああ、そうか!「タコ社長」だなと思ったことがある。
よくみると冷静かつシビアなんだ、このタコ社長の発言は。車一家にとってはいつもひょっこり顔を覗かせては他人事みたいな冷たいことをいって水を浴びせる。寅とケンカばかりしている。これ、監督の分身だな、と思った。
もっとも分身といえばすべてそうかもしれないが。とくに小説の登場人物となるとそうかもしれない。
「朝野」を軸にした『如何なる星の下に』こそ生まれよ!
吉本隆明『言語にとって美とはなにか』デ・・・・ガイジンも海を見て「うー」と言ったのだろうか?
中中さん、おもしろく読んでますよ。
このごろまとめて読んでいる作家の本はありませんが、コンピュータの本は日常的に読んでいる。
下の『言語にとって美とはなにか』からの引用、「言葉は心的現象、からみればザルだ。しかし、文字というザルの網からこぼれおちたものを向こうから捕捉しようとする構造もある。ずっとこぼれおちつづけるもの、それは生活だ」というふうに伸ばして読んでみました。
ところでどなたか書いて下さいません?
なんかわたしひとりが無遠慮に書き込んでしまった。
もう、しばらくは書きません。
荒らし、失礼しました。
吉本隆明『言語にとって美とはなにか』を読み直す。
日本語の表現についての考察。
何度読んでも読んでも読み足りない。
食卓に並んだ難解な知識という皿を清潔な手に握ったナイフとフォークでいじくりまわしている、したり顔の詩人の何人がこの書を理解しているのだろう?
わたしが問題にしている「詩の朗読」の本質をつくことばがみられた。
「文字の成立によって本当の意味で、表出は、意識の表出と表現に分離する。あるいは、表出過程が、表出と表現との二重の過程をもつといってもよい。言語は意識の表出であるが、言語表現が意識に還元できない要素は、文字によってはじめて完全な意味でうまれるのである」
ここのところずっと「磯の浦」には波がない。
従って関西のサーファーとくに近畿圏のサーファーは
手持ち無沙汰だ。
陸にあがった河童だ。
サーフィンだけのために職業を今のものにした
わたしも手持ち無沙汰。
波のない理由はわかっている。
環境破壊。これにつきる。
さてと二日酔いの頭を傾けながら
裏庭の雑草を眺めていると近所の野良猫がやってきた。
「人生の重要なことはすべて猫に教わった」
ってのは本当だな。
じつにのんびり春を感じ、楽しんでやがる。
タンポポの枯れた雌蕊が風にのって蚊のように飛んでいるのを不思議そうに眺めてやがる。
大昔の、のらくろ二等兵って漫画の猫そっくりだ。
色川武大『狂人日記』を読む。
この人は真の意味での天才なりとの思いを新たにする。
五十年にひとりの天才なり。
『引越し貧乏』もそうだが、観念坊主には決してその凄みはわからぬであろう。なーちゃって。
吉本隆明『写生の物語』を読む。
この読後感を短歌で端的に歌えば、
どのトピックスも「だから、なんだ?」と呟きつつ最後のページをめくる
といようなことになろうけども、いやはやさすがの大吉本もそれほど深い穴を掘り続けることができるわけでもなく、最後はこのような随筆でなんとなく短歌の雰囲気を盛り立ててくれている。
しかしあんだな、やっぱり最後のトピックの
「往路として現在の短歌的な声調を平明にした先駆は俵万智の『サラダ記念日』だと思う」という意見は受け入れられないな。
そら間違いなく山崎方外でっしょ。隆明さん?
三浦哲郎『忍ぶ川』(新潮文庫)を読む。
解説によると作者はこれで芥川賞をとったらしい。
わたしはこの作品は通俗的で好まないがそれよりも同書に収められていた短篇『幻燈画集』にたまげた。
どうしてこれが何かの詩の賞をとらないのだ?