うろこ新聞 2001年月日
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うろこ新聞 2001年10月21日号



 浅草に息子が引っ越したので、ときどき足を運ぶようになるだろう。
 めでたい席があった。銀塩写真のカメラを持っていったのだが、電池の部分の接触が悪くて撮ることができずに、会の後、妻と浅草寺をぶらついて何枚か撮った。
 これは墨田公園から、朝日ビール(?)のビルを写す。左のビルは写真には写っていないが、よく見るとジョッキから泡が出ているを模している。


 仲見世とは筋違いの道を歩くとかつら屋さんがあった。


 浅草寺の入口には煙で清めるところがある。


【倉田良成の解酲子飲食 45】

東西交流

 穀物を碾いて粉にしたものを麺として食すのはアジア独特の食習慣と言ってよいが、ではヨーロッパのスパゲッティやヌードルはどうなのかという反論もあろうかと思う。私が聞いた話では、ヌードルの淵源はスパゲッティで、そのスパゲッティは中世、イタリア半島の国々がほぼ独占していた東方貿易によって麺という考え方がもたらされた結果だという。ローマ時代にピザやフォカッチャの原型は認められるが、麺という発想はどこを探しても見当たらないようだ。麺食いの思想はそのもっとも華麗にして無限のバリエーションを有する中国をはじめ、近隣の朝鮮、日本は言うに及ばず、東南アジアや中央アジアにまで広く流布していて、これがヨーロッパに入ったのは恐らく南回りのルートによるものでないかと考えられる。では対比して北回りで入っていったものは何かと探りたくなるが、これはハンバーグステーキのもとの形のタルタルステーキではないかと思う。タルタルステーキは東西交易というような穏やかなものではなく、いまもヨーロッパ人の心の底にトラウマのように残存している、中世のタタール人の侵入の痕跡と言えるのではないか。生肉をミンチにしてさまざまな香料で調味して食べるというこの料理は、火を通さないものはまず食べないという(ただし牡蠣は例外)ヨーロッパ人の食習慣とはちょっと趣を異にするが、モンゴルあたりでは当たり前の肉の食い方である。タタールにやられたロシア、東欧、オーストリア、ドイツ東部などにいまも伝統的に遺る挽肉料理はじつに見事であって、それが東方からの恐怖の産物であることは、例えば街を占領したタタール人が生きた馬の尻にそのままかぶりつく幻想を描いたカフカの短編を読んだとき、よく分かった。

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