うろこ新聞 2001年月日
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うろこ新聞 2001年9月11日号



 今午前10時、台風接近でだいぶ風が強くなってきた。窓のガラスと網戸が大量の水で掃除されている。ベランダに置いた鉢物も、室内に退避させている。
 昨日夜「うろこ新聞」を作ろうと思っていて、ごろごろしていたらいつのまにかベッドの上に寝ていた。朝起きて、雨の合間にカオスと散歩。


【倉田良成の解酲子飲食 26】

俳席定

 尾張の人、横井也有のライフワークである俳書「鶉衣」のなかに贈人俳席定という一文がある。江戸期全般を通じて貴賤を問わぬ一大娯楽であった連俳の集いが、奢侈飲食に傾きがちであったのは心ある宗匠には頭の痛いところだった。すでに芭蕉の時代からしてそうで、その少しまえに成立した郭文学「難波鉦」などでは放蕩息子が遊郭に行く口実に俳諧を持ち出していることからもそれは窺える。江戸期も下った頃の也有の定めは専ら口腹のことに関していて、〇飯は奈良茶飯に限ること、〇副菜は一つで魚鳥は有るものに任せて珍奇を求めない、〇香の物はあってかまわず、〇麺類が好みでも奈良茶飯に従うこと、〇酒は盃に大小あろうが上戸でも二杯までとする、という五箇条から成る。ここにいう奈良茶飯とは、大豆や小豆などを混ぜた塩茶飯のことでもとより質素なものであるが、芭蕉の時代に大流行を見、それがための茶店まで出来たほどで、也有は、蕉翁が「なら茶三石喰うて後はじめて俳諧の意味を知るべし」と言って侘の精神を顕揚した故事にこそこだわるのである。俳席にちょっとした酒肴があったほうが場が弾み、それが過ぎると俳席そのものが成り立たなくなることは現代の経験からでも分かる。也有の掟は即ち飲食の掟だが、蕉風にも存在する俳席の「会式」では虚礼停止や宗匠の作法に重点が置かれ、飲食については粗食粗茶、酒乱に及ぶなと簡単に触れているだけなのも時代と個性の違いを思わせる。

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