うろこ新聞 2001年月日
うろこ新聞 目次前頁(うろこ新聞 2001年8月26日号(沢蟹号))次頁(うろこ新聞 2001年8月24日号)
Shimirin's HomePageUrokocitySiteMap


うろこ新聞 2001年8月25日号(雑草号)



 夏のむんむんした草いきれは懐かしくなる。この空地は家が取り壊された後で、徐々に雑草が茂ってきている。近所には、毎年カラスウリが成るフェンスのある空地などある。しかし、ある日きれいに刈り取られていたりする。空地所有者が雑草は蚊が出るから刈ってほしいなどと近所から言われるのだと思う。(鱗造)


【倉田良成の解酲子飲食 12】

貧しさというスパイス

 油揚は気の利いた脇役だと思う。だが、絶対これなしには済まされない、というほどのものではない。まあ、同じ脇役とはいっても葱などがときにネブカ汁における堂々たる主役に変身するといった例しとは違うのであって、それはあくまでも主菜にたいする引き立て役にとどまる。ところでこの油揚へのわれわれの好感のスパイスは何かといえば、ひと口に言ってそれは「貧しさ」にともなう味わいなのではないか。稲荷寿司の持つ極限的な貧困さはさて措いて、油揚を寄せ鍋にちょこっと入れたり、ヌタに焼いて刻んだのを混ぜたり、あるいは京風の「青菜とアゲの炊いたん」という惣菜は、いずれも油抜きが必須のこととはいえ、そこに添えるだけで油揚それ自体から何ともいえないダシが出るような気がするものである。貧しさとは即ちこの「ような気がする」ということで、主菜そのものの有する自足にひとつの空無をもたらしてわれわれの食欲を真空のように引き寄せるのである。江戸期の「豆腐百珍」に、油揚に醤油と酒だけを混ぜたタレを塗って焙るという料理法が載っているが、若い頃にそれを試してみたところ、夕餉時にたちまちその峻烈ともいえる香が立ち上ってほとんどそれだけで満ち足りて、油揚自体はどうでもよくなった。

うろこ新聞 目次前頁(うろこ新聞 2001年8月26日号(沢蟹号))次頁(うろこ新聞 2001年8月24日号)

Shimirin's HomePageUrokocitySiteMap