二十九の少年

けんじゅう






海へ行こうと 少年は思った
最北の漁師町
真冬ともなれば 鼻水が凍る 
荒くれ男たちどもの漁船に乗り
一人足となって網を引く
少年は 漁師のように
たくましくなりたいのだった

山へ行こうと 少年は思った
ひなびた寒村
水桶が肩に食い込む
田植えと刈り入れの季節には
みんなして汗を流す
少年は 農夫のように
働き者になりたいのだった

街に出ようと 少年は思った
不眠の繁華街
ミラーボールのきらめくディスコ
裏手ではホームレスが残飯をあさる
少年は バーテンダーのように
おしゃれになりたいのだった

どこでもいいのだった
少年を容れてくれるところならば
少年を見知らぬ人のあいだならば
会う人ごち笑顔を振りまき
優しく生きるだろう
それとなく善人と呼ばれ
少年は 市井の人になりたいのだった



旅をひたすら夢想し 渇望しながら
居所といえば やはり昼も夜もない
四畳半の隅っこでしかない少年
「かれこれ 二年も人と話したことがない」
少年は死んだ時間を指折りして
ゴクリと唾を飲んだ
読まれぬ本のように
書かれぬ詩のように
旅行カバンは 埃をかぶったままだ

台所では 母が無言で今日も
あれは キャベツを刻む音だろう
母は 一人分の野菜炒めを
台所に置き去りにして出てゆくだろう
家族との対話は閉じられたまま
格子越しに 明るすぎる日差しが
いつのまにか伸びた新緑に
降り注ぐばかりである

二十九になる少年の
まんじりともせぬ時間が過ぎて行く





うろこシティアンソロジー 作品篇 No.1 目次前のページ次のページ
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