清水昶、内村剛介、安西均の「石原吉郎論」

清水昶、内村剛介、安西均の「石原吉郎論」



清水 清水昶の『石原吉郎』ですが、この本は『礼節』までしか触れていませんね。そして『少なくともいまのわたしは「事件」としては去りゆく石原吉郎のうしろ姿に、予感としてこれからはじまるであろうわたし自身の戦後をみているつもりである』という形で、『礼節』あたりからの石原吉郎に違和感を表明していると思います。この本の考え方を引きますと、『当然のことながら石原氏は戦後の時間を強力に拒みつつ生き得たからこそ、シベリヤラーゲリの「事実」を戦後のなかに良く表出し得たのであり、石原吉郎にとっての戦後はそうして実現されたのだ』という見方ですね。「拒みつつ生き得た」というより、不可避的に拒んだということだと思いますが……。それから内村剛介の『失語と断念』ですね。内村さんは石原さんと同重量で立って石原さんと対峙しようとしているように思われます。「収容所における日本人論」「裏切り論」という面がひとつと、外国の収容所文学と対比させている面がひとつあると思います。『人間の「裏切り」。シベリヤが石原に与えた「ただひとつのこと」――それは、人間にとって裏切りとは何か、という問いであった』と書いていますが、この評言に内村剛介の石原論の質が表われていると思います。同時代というところから逃れた「石原吉郎論」がでてくるのは、これからだと思いますね。
渡辺 清水昶氏の石原論は、動いている一人の詩人の足跡を、すぐうしろから捉えようとして書き継がれたもので、作品との幸福な関係と言えると思います。若い読者に石原吉郎の作品を広めたのは彼の一連のエッセイによるところ大だと思います。ただ作品との幸福な関係も、外から見れば、個人的な立場に引きつけ過ぎた深読みの箇所が頻出して、世代の違う読者からすれば理解しがたい部分が出るかも知れませんね。内村さんは、石原吉郎よりも三年長いシベリア抑留体験者で、ロシアの痛みを最底部において経験するとともに裏切り者としての日本人全体という視点をもった人だと思う。石原吉郎の晩年の方向は、まんまと逃亡して単独者としての詩人になりおおせたと見て、赦しがたいんでしょうね。だから裏切り者の一人として石原をシベリアの原点に立たせて、詩人の責任を糾問するというモティーフがあると思います。それと、スターリニズムの本質を早くから見抜いていた人ですから、それに対置させた現代ロシア文学論という性格をもっていますね。『失語と断念』は、方法においてユニークな本ですが、石原論としては、石原吉郎の作品から離れ過ぎたところで論じているように見えますね。
 もう一つ、単行本として安西均さんの『石原吉郎の詩の世界』が出ましたね。これは石原吉郎の作品とキリスト教との関係を、聖書の具体的な章節との対応関係を指摘して示している点が他に見られない特色で、たいへん参考になります。僕も近く石原論をまとめることになって一区切りをつけますが、できるだけ作品に即した読みということと資料を踏まえることを心がけています。

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石原吉郎 没後四年 目次| 前頁(北條民雄)| 次頁(後記および奥付)|
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