〈儀式〉

〈儀式〉



清水 だいたい今までの話で、初期の作品から『水準原点』ぐらいまでは押えられると思いますが、『礼節』以後では前面に出てくることが少し色合いを変えてくると思います。たとえば、ひとつの言葉〈儀式〉に象徴的に表わされる色合いが前面に出てきます。渡辺さんとの対談のなかで『歌舞伎や能などの場合の乱れですね。乱れがひとつの「かたち」になっている。非常に優雅な形として乱れてみせる』と言っていますね。これは渡辺さんが『北條』の作品中でもポイントになる「流涕」について訊いたとき出てきた言葉なんです。こういうニュアンスのことが〈儀式〉という言葉で前面に出てくるわけです。これは結局晩年の死への思想にも結びついていく。作品のかたちということでも、「僕は詩は何よりも美しくなければいけないと思うし、美しくなるためには言葉において美しくなければならないと思うんです」と言っている。
 それから、彼の死への思想に触れますが、彼は自殺未遂は三回あったと思います。第一に、十八歳のとき睡眠薬で自殺未遂。それからぼんやりしたかたちであり異常状態ではありますが、「オギーダ」に、ボートを対岸に取りに行けといわれて泳ぎに行こうとする、しかし向こう岸に到達する意思は全くなかったというような記述があります。これは一種の自殺未遂だと思います。それから晩年、昭和五十二年に自殺を企てたとエッセイに書いている。この三つの自殺未遂があると思います。『満月をしも』に収められた「死」と題された詩を引いてみます。

  死はそれほどにも出発である
  死はすべての主題の始まりであり
  生は私には逆(さか)向きにしか始まらない
  死を〈背後〉にするとき
  生ははじめて私にはじまる
  死を背後にすることによって
  私は永遠に生きる
  私が生をさかのぼることによって
  死ははじめて
  生き生きと死になるのだ

 この詩で死に対する思想が言い尽くされているかもしれません。自殺未遂というのは、「乱れ」の最たるものですが、〈儀式〉という言葉へのこだわりは死への思想へと結びついていると思います。
渡辺 そのあたりは相互に関連している問題だと思いますね。特異な体験を経て、それについて繰り返し思考をめぐらさざるを得ないという状態が一生続いたわけで、これはとてもしんどいことだったと思いますね。いわば実際に当人が乱れてしまうという危険性はしょっちゅうあったと思うんです。彼の短歌を見れば、形式という枠組で辛うじて支えているものの、それさえ時どき崩してしまい、内容たるや、かなりの乱れようですね。それが、最後の自殺未遂前後の状況だと思います。せめて作品のうえでは、それを出したくない、作品としては美しくなければいけないという考えがあって、〈儀式〉という「乱れるにもかたちがある」という考えに繋がっていて、それを作品にしたのが「流涕」ですね。それが晩年の作品の傾向の一面を代表していると思う。更に、体験を絶えず咀嚼する過程で、恐らく、実生活上の別の要因も加わっていたと思うけれど、自身が乱れる危険性といつも隣り合わせでいる状態からいいかげんに脱出したいという気持が彼にはあったと思う。だから、『海への思想』の「あとがき」で「ようやく抑留体験から遠ざかりつつあることに気づかされた」と書いているけど、自分自身遠ざかりたかったという願望の表明だったと思うんです。例えば新川(和江)さんの作品を評価することの一端には、ああいう形の整った華麗な作品が書けることへの羨望と、そういう世界への憧憬があったと思います。自分がとらわれ続けた位置は、そういう世界には距離があり過ぎる、その位置からはもう遠ざかりたい、だが容易には遠ざかることができない、というところを経たうえでようやくたどり着いて選んだ方向が、晩年の作品群の傾向になっていると思います。彼自身にとってさえフィクションとしての日本中世への遡行だったのではないか、と僕は書いたことがありますが、しかしそれは、教養としての古典とか、古典から素材を借用するなどというレベルを越えて、統一ある強い作品世界を形成していますね。その作品群の評価が、石原吉郎評価の分岐点になると思いますが……。
清水 もう少し彼の死に対する考え方が表われたところを引っぱってみます。まず清水昶との対談で、「ぼくにとって死へ向う姿勢ということを、決定的に感じたのは判決を受けた直後ですよ。二十五年という予想もしない判決で、あの時はもう、二十五年とは死ぬことだと思ったのだけれど、その時はとにかくそういう重大な事実に対してなんとか自分の姿勢を立て直したいということばかり必死になって考えたわけです」と言っています。それから「沈黙するための言葉」のなかで、「人が死にそうになると、とても助からないと思うときでも放ってはおかないでしょう。一分でも一秒でも生きさせようとする。それは、死が不自然だということを直観しているからです。だから本当は、人間というものは死んではいけないのだという考えが、確固としてそこにあるのだと、私は考えます」と言っています。「自然な死ほどおそろしいものはない。不自然な死ほど自然なのだ」と、「一九六三年以後のノートから」にも書いています。
渡辺 「不自然な死ほど自然」という思想も、彼にしてみれば自然な考え方だったかもしれないですね。それは〈日常〉の問題とも関連すると思います。彼の一生から見れば、収容所とそれに結びつく生活のほうが〈日常〉だという見方ができる。彼はそう見ざるを得ない立場に置かれていたわけです。
 死をめぐる思考ということでは、これも書いたことですが、死もまた生の側面だという認識が基底にありますね。生涯のうちに何度も、そういうふうに自分を納得させる必要性にぶつかったのだと思います。
 それから、第一の自殺未遂が謎というか、そのときの自殺を選ぶ原因が明確にわかれば、石原吉郎の生涯というのは見通しがつけやすくなると思いますね。
清水 確かその年に高等師範の試験に落ちていますね。大岡昇平との対談では「家庭のごたごたがいやで」と言っていますが。
渡辺 ええ。作品と対応させにくいので、この点については今まで書いていないのですが、家庭の問題が大きかったのではないかと僕も推測しています。「肉親への手紙」を書くことになる遠因、父親のことには触れないのに対して、恐らく本人には具体的な記憶は無かったと思われる実母に対する強い思慕、それらのことからも、ある程度の推測はできますね。あの年代では、受験に失敗したこともはずみをつける動因になったかも知れません。戦争という背景に加えて、恐らく自殺に向かう原因と入信の動機とは重なっていると思うんですが、キェルケゴールにおける父親との関係やレギーネ・オルセンとの婚約破棄の問題ほど明確に見えないですね。

|
石原吉郎 没後四年 目次| 前頁(強制収容所の視点)| 次頁(〈信仰〉)|
Shimirin's HomePage へ
うろこシティ表紙へ