強制収容所の視点

強制収容所の視点



清水 「アウシュビッツは私には、かかわりがたい遠さである」という言葉がありますね。対談集にも出てきたと思いますが、共和国刑法はロシアの国内法で、石原さんが適用されたのは第五十八条(反ソ行為)ということですが、結局は労働力に日本人を抑留して使いたい、という一つの目的があった。ここに条件においてアウシュヴィッツとの根本的な差が表われていると思うんです。だから、強制収容所後遺症候群という視点でみてみると当然質的な差異はあるかもしれませんが、収容所に入って受けた衝撃というのは直接心の病気と結びついてくるような強烈なショックであったということができると思うんですね。そういう精神病理学的に石原さんの文学を分析する視点が、石原さんの“精神的潰瘍”を説明する視点になり得ると思います。
渡辺 シベリア抑留者は日本人だけで六十万人、そのほかソ連国内の人もヨーロッパから収容された人もいた。ナチの収容所とソ連の収容所では、捕虜の交換などもしているんですね。ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』に出てくる人物の一人に、大戦中はドイツの捕虜となって、向こうの強制収容所で何年かを過ごし、帰国後はソ連の収容所に入れられたという人がいるけれど、これなどは、その交換の例じゃないかと思われるし、その数はかなりなものだったようですね。ナチの収容所とソ連の収容所は発祥とか成り立ちは関係があるようですね。言葉自体、ドイツ語でラーゲル、ロシア語でラーゲリで語源は同じでしょう。ドイツ語でただラーゲルといえば、ねぐらとか小屋の意味で、合宿訓練所などもラーゲルというようですね。もとは「強制」ではなくて、思想矯正の意味の「矯正」収容所なんですね。反体制分子の再教育の場とすることが起源であり、どちらも洗脳のための収容所で、ナチの場合にはユダヤ人の絶滅収容所となり、ソ連では強制労働者の収容所となるわけですね。
 石原吉郎の場合は、他の捕虜と一緒に抑留されるわけですが、情報部に勤務していたことで、白系ロシア人の密告でスパイ行為の容疑を受けたんですね。それで形式だけの裁判で重労働二十五年の宣告を受けたわけです。はじめからいわゆる“隠し戦犯”で労働力として算入されていたんですね。石原吉郎に適用されたのは「ロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国刑法」第五十八条(一九五九年廃止)の六項で、これは反革命罪の中のスパイ行為に対する罰則です。〈財産の全部または一部を没収し、三年を下らない自由剥奪。ただしスパイ行為がソヴェト社会主義共和国連邦の利益にたいし、とくに重大な不利益をもたらしたか、またそのおそれのある場合は、最高の社会防衛処分、すなわち銃殺、または財産を没収し、連邦共和国およびソヴェト社会主義共和国連邦の国籍を剥奪し、ソヴェト社会主義共和国連邦の領域から永久に追放し、勤労者の敵であることを宣告する〉というのが、その主要部分です。外国人を国内法で裁くこと自体不当だけれど、その条文に照らしても二十五年の重労働刑に服させるというのは、全くでたらめな判決ですね。もともと国際法違反による捕虜虐待、抑留、強制労働ですから、条文と矛盾する判決などは問題でなかったでしょうね。国内でさえ、例えばマンデリシュターム夫人の回想録を読んでも、マンデリシュタームの逮捕のときの様子はひどいものだけど、それが普通だったらしいし、粛静されたヨナ・ヤキール将軍の息子のピョートル・ヤキールなどは、レーニンとスターリンの肖像画をパチンコで打ったというだけでテロリスト扱いで十四歳から三十一歳までラーゲリ生活をさせられているんですから、対戦国(となったばかり)の捕虜をどう処分しようが大した問題ではなく、シベリア鉄道敷設その他の労働力を確保することが問題だったんですね――。石原さん自身、具体的に語っていないので、少し詳しくしゃべりましたが、それで石原吉郎の場合は、偶然スターリンが死んだことで、特赦があり、八年間の抑留で帰還できたわけです。その後、表現活動を始めたんですね。初め当人にはそういう意識はなかったようだけど、やはり収容所体験の影響を反映した表現活動になりましたね。強制収容所後遺症候群というのは、西欧にあって日本にはない精神的な異常といわれたものだけど、日本でもソ連抑留生活の長い人にあることがわかったんですね。分裂病の発病初期の精神病理に類比的に似ているんだそうです。精神病理学の視点から、どこまで作品を分析できるかは疑問だけれど、“精神的潰瘍”を説明する視点にはなり得るでしょうね。石原さんは毎年八月が近づくと、腕に痣が出てきたそうだから、肉体にまで変化を及ぼす強烈な体験だったわけですね。それでも最晩年には、その痣も出なくなったそうで、その点からも、抑留体験から遠ざかりつつあったといえるんじゃないでしょうか。
 新聞にも書いて例示したことですが、ナチスの収容所体験をもつヨーロッパ各国の文学者が、第二次世界大戦後に始めた表現活動の内容と、石原吉郎がシベリアから帰国してから始めた表現の内容は、ある共通性があると僕は見ています。第二次大戦後の強制収容所の体験者の文学という意味で、それが戦後文学にどんな位置を占めているのかは、検討すべきところだと思う。石原吉郎の文学活動を評価するのに今まで欠けているのは、この視点だと思いますね。日本の文学史上を見ても前例がないわけです、戦前にそういう体験をした人がいないんですから。戦後の思想状況全体について、「アウシュヴィッツ以後」という言葉がありますね。そのぐらいに、強制収容所という体験を人類がもってしまって以後ということでは、当然政治思想でもその他の面でも変わらざるを得ない。大上段には構えていないけれど、それを踏まえた文学ということで、日本ではきわめて少ない例になるわけですね。ほかにも長谷川四郎さんとか少数の体験者の表現活動はあるけれど、あれだけ深いかたちで反芻し抽象して表現したという点で、石原吉郎は評価されると思う。強制収容所体験者の文学という点で、特異な存在として、日本文学史のある点に石原さんは位置を占めると思う。

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石原吉郎 没後四年 目次| 前頁(〈日常〉への思想)| 次頁(〈儀式〉)|
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