〈日常〉への思想

〈日常〉への思想



清水 そうですね。『望郷と海』のはじめの四つのエッセイの鮮明さ、リアリティの高さというのは、一種の告発になっているわけですね。だから、この四つのエッセイが文学的頂きにあると同時に、その鮮明さにおいて告発の頂きにあるのかもしれません。
「『望郷と海』について」というエッセイで、『これらのエッセイを一貫している主題は、加害と被害、集団と個体、不条理としての自由、孤独と連帯、沈黙と失語といった問題であるが、結局は「日常」という大きなカッコでその全体をくくることができる』と書いています。〈日常〉ということも大きな主題のひとつですね。強制収容所における〈日常〉と、帰国後の〈日常〉の段差が表われているのが、「肉親への手紙」であるわけです。日本に帰国してからのことについて、秋山駿さんとの対談で「そのときは、自分を整理する力もなにもありませんから、極端な疎外感に悩まされた時期が三年ほどありました。それから、すこしずつ自分が経験したことを整理することになったんだろうと思うんです。その三年間の混乱が、ぼくにとっては決定的でした」と言っています。もちろん一九六二年の「ノート」にもあるように「僕にとって、およそ生涯の事件といえるものは、一九四九年から五〇年へかけての一年余のあいだに、悉く起ってしまったといえる」わけで、収容所生活の始まりというのは激烈なものであったと思う。石原さんは清水昶との対談で、強制収容所後遺症候群というのは日本にもあるはずなのに、ヨーロッパで論じられるほど十分に論じられていないのではないか、というようなことを言っていますが、この帰国後数年というのは、まさに強制収容所後遺症候群、あるいはそこから回復に向かうときの苦しさを思わせるところがあります。精神病理学的な視座で石原さんを分析することはある程度可能だと思いますね。
 それから、抑留されている時期、敗戦後の焼け跡闇市時代というのは、当然石原さんには欠落しているわけです。敗戦直後、彼のまわりの人がすぐ銀行に行った。それを見て彼は不思議だったけど、実は銀行に行ったというのが敗戦後の人々の〈日常〉への復帰の第一歩だったという話があって、この話は象徴的なんですね。敗戦後の日本人は、それから一直線にたちまちのうちに新しい〈日常〉に復帰しているわけです。そういう日本へ何年かして帰ってくるのだから、段差があって当然なのですが、「肉親への手紙」には思い余った彼の「叫び」のようなものを感じます。つまり、『「私は責任と義務をすでに余るほど果して来た。あなた方のいう責任や義務とは比較にならない程重い責任を果して来た。しかもその事のために、今あべこべに生きる道を拒まれている。」と私が大声でいってはいけないという理由はないと思います』と彼は言います。そして、肉親への訣別の言葉、これは後に現実的な問題として長く尾を引いています。日本が焼け跡闇市時代のときの何年かを収容所にいて帰ってきたときの〈日常〉の段差というのを、「肉親への手紙」は表わしていると思います。血縁的繋がりからの乖離ですね。これはある意味で彼の表現へ没入していく契機になっているとも思いますが……。
渡辺 彼の場合には戦後八年経って、日本が焼け跡から復興し、朝鮮動乱の特需景気に沸くところへ帰ってくるわけで、戦後すぐの時点とずれていますね。あのずれがなければ受け入れられ方が全然変わっていただろうし、彼自身の対応も変わっていたと思いますね。彼は、日本人の誰かが背負わなければならない義務を自分が果してきたんだという意識をもっていたわけですね。当然「ごくろうさま」という形で熱烈歓迎されなければいけないところを、歓迎どころか、“シベリア帰り”ということで冷淡な扱いを受けた。そのずれがまた彼をシベリアに突き戻したというか、強制収容所体験を反芻せざるを得なくなる方向へ向けさせたと思う。歴史の大きな目で見れば、戦争も平和も小ぜりあいも、全部〈日常〉だと思うのだけれど、通常は波風の立たない平穏無事な、大きな事件がないことが〈日常〉であって、戦争というのは〈日常〉と別の軸をつくる〈非日常〉であるわけですね。だから、日本人の誰かが背負わなければならない責任を偶然にも自分が果して、〈非日常〉から〈日常〉へ帰るという意識が彼にはあったと思います。戦地へ出た兵士は誰でもそうだと思いますが、特にソ連領に抑留されていた人たちは望郷の念が強かったわけです。彼らにとっては、帰還すれば当然暖かく迎えてくれる〈日常〉がなければいけない。ところが現実は大違いだった。そしてまたシベリアに突き戻されてしまった。そうなると、シベリアでの〈日常〉が戦後の石原さんの生活の上にオーバラップされて反芻される。そういう意識で日本の“戦後”を生きざるを得なかったという面があると思います。だから彼の〈日常〉観というのは、われわれの通常の生活感覚からはかなりずれていると思いますね。例えば、対人関係などでも周囲とずれちゃっているわけです。これは普通にいえば彼の不幸だけれど、そのインパクトとかコンプレックスがあったからこそ、彼があれだけのものを書けたともいえると思うんです。
清水 また、『「もはや墓地とははっきり離れなければいけない」という考えは、まさにその墓地をうろついている時に、私の内部ではっきりした輪郭をもって来たということです』と書いている。これは反日本的心性に繋がると思いますが、ここで強制収容所と帰国後の〈日常〉の段差のインパクトから、現実生活からの乖離を起こしていると思います。この乖離がさらに起こす落差が文学的なものに結びついてくる。
渡辺 帰ってきたときの落差というのは、彼が帰還前に考えていた〈日常〉というものはなくて、帰国後も国内で抑留されているとでもいうべき状態、彼の言葉でいえば、「強制された日常」であったということですね。その落差からくる怒りを直接ぶつける相手は、まず身近な肉親だったんでしょうね。現実にそれは起こった。だから、「肉親への手紙」はかなりのリアリティをもって書かれていて、あれは事実上の肉親との義絶宣言になってしまったわけです。

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