鹿野武一

鹿野武一



清水 今の話にちょうどでてきた鹿野武一のことについて話したいのです。
『望郷と海』のはじめの四編が、石原さんの散文群の頂点をなすと思うんです。その『望郷と海』のなかでも、石原さん自身が「ペシミストの勇気について」という、鹿野武一について書いた文が中心だと言っています。その鹿野武一に関係する思想についていえば、まず「告発しない」ということですね。これは石原吉郎の態度、思想にも繋がってきます。それから、後にフランクルの『夜と霧』に触れて、フランクルには「告発しない」という態度があったから、ああいうふうに書けたんだと言っています。鹿野武一を指して「単独者」と呼びましたが、石原さん自身の立場を「単独者」と言うことにも結びついてくる。たとえば「沈黙するための言葉」という文章、白詩自註であるわけですが、「デメトリアーデは死んだが」と「脱走」を説明するときに、この「二つの作品に共通しているものは、どのような事件に対してもおよそ告発や抗議を行なわないという私自身の姿勢のようなもので」と書いています。つまり、鹿野武一の態度であると同時に、抑留中の石原吉郎の態度でも、すでにあったと思うのです。それから『海を流れる河』の巻末に収められた「自編年譜」を見てみますと、鹿野武一について書かれた部分が大分あります。
 一九四一年ですね、「七月、関特演(関東軍特別演習)と称する空前の大動員が行なわれ、高等科生は一部参謀本部要員を残し、関東軍司令部へ転属になった。鹿野は成績上位であったため残留を命ぜられたが、これを拒み、結局私たちに同行した」。そして一九四三年、それから二年後ですが、「この年鹿野は、開拓医志望の初志を捨て、一介の開拓民として入植した」。さらに、「これらの過程とその後の過程を通じて、彼の生き方につきまとったニュアンスは、自己を『試みる』という姿勢であって、それは彼の古い東洋哲学的な素養と、医科学的な素養の双方にかかわるものであろう。こうした彼の姿勢は多分に生体実験的なニュアンスを帯びてくる」というふうに書いている。それで帰国後、一九五八年鹿野は自死している。石原さんの目に映った鹿野武一の一生の経過はこのようなのですが、石原さんの文章によって鹿野武一の相貌はかなりはっきりと像を結んでくる。
渡辺 さっき言ったようにエゴン・ヘッセルが片方にいて、もう一方に鹿野武一がいる。ヘッセルは亡命してしまったのですが、その後、石原吉郎は帰国し、ヘッセルも日本に来ています。ところがその後二人は会っていない。鹿野武一の存在のほうが大きいわけです。フランクルの場合の「告発しない姿勢」というのはあまり積極的に選んだ「告発しない姿勢」ではないのではないかと思います。彼は科学者ですから、その科学者の態度を失わないで最後まで分析的に体験を報告しているところがあります。石原吉郎の「告発しない姿勢」というのは、鹿野武一の影響が絶大だと思う。ただ、それは直接告発しない、告発する姿勢をとらない、ということであって、鹿野武一には自ら生体実験のなかに身を投げ込むというようなところがあった。それは、やはりネガティブなかたちの「告発の姿勢」だと思うのですね。個人主義の発達しているフランスでも、単独であれだけ強烈なレジスタンスを敢行する人間は極めて少ないと思う。で、石原吉郎も「告発しない姿勢」を自分もとるんだと言いつづけて、確かに直接的な「告発の姿勢」はとっていない。そのへんが内村(剛介)さんや吉本(隆明)さんに代表されるような石原批判のポイントになると思います。だけれども、結局、石原吉郎も.鹿野武一と似たような意味での、直接的な手段ではない一種の告発をしつづけたと思うのです。積極的な手段をあえてとらなかったということで、結局、沈黙していたわけではなかった。そういう姿勢からも、韜晦的な表現方法、難解な表現方法が生まれてきていると思います。

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石原吉郎 没後四年 目次| 前頁(〈断念〉)| 次頁(〈日常〉への思想)|
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