〈断念〉

〈断念〉



清水 単行本『断念の海から』の序詩でもある、『礼節』の最初に収録された作品「断念」をはじめに引いてみます。

  この目 馬は
  蹄鉄を終る
  あるいは蹄鉄が馬を。
  馬がさらに馬であり
  蹄鉄が
  もはや蹄鉄であるために
  瞬間を断念において
  手なづけるために
  馬は脚をあげる
  蹄鉄は砂丘にのこる

 石原さんの詩の難解さということにも関わってくることなんですが、石原吉郎の思想のポイントに〈断念〉があります。
 渡辺さんもすでに「シベリヤヘ送られる以前に、既に一度は断念の契機を経ていたのである。いわば初めから断念において出発していたとみることができる」と、石原さんの出征時の〈断念〉について書いています。清水昶との対談「儀式と断念をめぐって」でも、「戦争がぼくらに教えてくれたことはいろいろあるけれど、その中のひとつに断念の重要さということがある。やっぱりある断念をしないと戦争には行けない」と言っている。ほかのところでも、たびたび戦争と〈断念〉を結びつけて語っています。それから、軍隊に対するその頃の考え方としては、皆考えていたことと同じことを考えていたというふうに言っている。同じ清水昶との対談で「軍隊に対しては、あの頃の普通の兵隊と同じ目で見て、同じ感覚で生きてきたとぼくは思っているわけです。特にぼくにだけの特別な軍隊のイメージというのはなかったろうと思う」と言うわけです。
 さらに、「教会と軍隊と私」という文で、一九三九年十一月に召集を受けたときのことを次のように書いている。「たまたま話がソルダーテンプリヒト(兵役義務)に及び、その義務の有無をたずねられた。ヘッセル氏はすでにドイツ本国からの召集を拒否しており、いずれは亡命を余儀なくされる立場にあったが、暗にそのような立場について考えてもよいのではないかと、遠まわしの暗示を受けた」とあって、さらに「戦争というものを、そのまま死へと短絡して行く考え方は、すでに牢固として抜きがたいものになっていたといっていい。運命としての死の受容。その激烈な様相が私にとっての戦争であったと、私は考える。これを訂正する立場には今もない」。この部分が非常に印象的なんですね。つまり、同じファシズムの国ドイツの牧師、エゴン・ヘッセルの考え方と、日本の一般民衆の一人の石原吉郎の考え方との違い。この場合の、〈断念〉自体が、戦争前夜、戦時中の日本人の異常心理状態を表わしているんではないかと思われるんです。
 それからもう一つ、〈断念〉は信仰にも結びついています。「詩と信仰と断念と」という文章で、『人が断念において獲得するもの、それを最終的に「自由」と呼んでいいのではないかと、私は考えます。人が断念において初めて明晰でありうるのは、おそらくそのためであり、断念において信仰が獲得する自由という位相へと、結びついて行くのではないかと私は考えます』と言っています。こういうかたちで信仰と〈断念〉とは繋がっているわけです。
 さらに、〈断念〉は日本的心性に結びついていると思います。鮎川信夫との対談を二回やっていますが、『断念の海から』に収められたほうの対談「断念の思想と往還の思想」でも「日本人の断念」ということで語っているし、清水昶との対談でも、〈断念〉というのはアジア的だという言い方で指摘されています。鮎川信夫との対談では鮎川さんの思想の柔軟さと石原さんの思想の剛性というのが際立って、非常に面白いのですが、『断念の海から』の「あとがき」で『鮎川氏の「往還の思想」を、断念という姿勢へ過度に執することの危険への、示唆深い警告と私は受けとっている』と石原さんも書いています。
渡辺 鮎川さんのようなすぐれたバランス感覚と柔軟な思考力を持った人から見ると、石原吉郎の剛性というのは、過度にかたくなな姿勢と言えるでしょうね。「示唆深い警告」と本当に受けとっていたとすれば、もう少し生きる時間があれば石原吉郎の歩みは変っていたかも知れませんね。それは言っても仕方のないことだけど……。
〈断念〉は石原吉郎が晩年にたどり着いた思想的位置の、中心の問題ですね。従来の言い方で言えば〈諦念〉とか仏教的な〈悟り〉の手前の小我の放棄とかいう感じの捉え方が日本的あるいはアジア的という捉え方だと思うのだけど、〈断念〉と彼が表現したところにはもっと独特なものがある。漱石の〈則夫去私〉でもないし、仏教的な諦観でもない。〈断念〉と言うと、当人の積極的な意思も若干入る。“断念する”という自動詞の意味になるわけですね。多少は“断念させられる”という受け身の意味も含まれるけど、〈諦念〉よりは能動的意味が強まると思う。石原吉郎の生涯の気にかかる部分と絡むんですが、戦争という条件が目の前にあって、そのときには断念しないと出征できないということはよくわかるわけですね。あの時代に戦争に行くことは死ぬことだから、またそう思わざるを得ないわけだから、そういう意味では体験のない我々にもわかりますよね。しかし、何かそれだけではないものが加わっている。彼自身、応召するときに明確に思想的な意味をこめた〈断念〉という言葉はまだ持っていなかったと思う。後でいろいろな体験から抽象されたものが加わった言葉として、思想的な意味が付加されて彼の中から出てきたと思うのです。戦争に行く前にある〈断念〉を通過しなければならなかったことと、行った結果がまたああいうことになったということ。あのシベリア抑留体験を抽象する戦後の生活の中でかたちをなしてきた〈断念〉という思想だと思う。シベリア抑留体験からだけ見ても一面からしか見ないことになるし、信仰の問題だけから見ても一面的な見方にしかならない。その両方を含めて立っていた位置を表わすのに〈断念〉という言葉が彼にはいちばんふさわしかったのだと思います。
清水 石原さん独自の思想的な意味と別に、僕が関連して考えたことに、戦時下の日本抵抗詩の問題があるんです。日本抵抗詩の限界性というものは、ある意味で石原吉郎に象徴的に表われたものに繋がっているような気がしたんですね。吉本隆明の「アラゴンヘの一視点」の終りの部分に、金子光晴の作品を引用して、ヨーロッパの歴史風土に立つアラゴンの抵抗詩の限界性と、アジア的歴史風土に立つ日本の抵抗詩人金子光晴の限界性が指摘されている。石原さんと倉橋顕吉とはハルピンに同じ頃いたことがあるようですが、日本抵抗詩の限界性というものはもちろん日本的心性とかアジア性に結びついている。それが象徴的に〈断念〉というものに出ているんじゃないかと思うんですね。
渡辺 概ねそう言えるでしょうね。だから、エゴン・ヘッセルというのは、日本にいてヨーロッバ的抵抗を完遂した人物の例になりますね。ヘッセルはそういうことができる立場にいたんだということもあるけれど……。あの時代には、大部分の日本人には亡命など考えられないことだった。
 それから、片側にエゴン・ヘッセルがいるとしたら、もう片方には、軍隊に入ってから奈良で知り合う鹿野武一がいます。彼がソ連側の取調べに対して言い放った言葉――「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」――は、石原吉郎に決定的な影響を与えた言葉だと思う。エゴン・ヘッセルと鹿野武一と、この両極に決然とした態度をとる立場というのがありうるわけです。このように石原吉郎の眼前に、現実に身をもって示した人間がいたんですね。大部分の人は、その中間の大差のない位置に身を置こうとする、それが普通の人間ですよね。石原吉郎は鹿野武一のハンストに同調しましたが(収容所内のハンストとは抗議行動ではなく自殺行為)、彼らの言動から受けたインパクトの意味を思考せざるを得ない。原口統三をめぐる橋本一明や中村稔らの関係もそうだと思うけれど、そういうことがすべて彼の表現に繋がっていると思う。そういう基盤の上での〈断念〉ですね。実際の状況には条件があるけれども、論理的にはいろいろな立場を取り得る可能性の中で選択したものだったということですね。作品「断念」「耳を」「位置」「木」「花であること」等に見られる認識、〈断念において獲得する自由〉〈神の前での自由〉〈苛酷な自由〉等々の独特の屈折した表現で示されているもの、それは“日本的心性”とか“アジア的”と大雑把に言われるものと短絡していたのではないと思う。やはり、キリスト教思想の精神風土を背景として自己凝視を持続したところからでないと出にくい発想だと思います。

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