石原吉郎の詩の難解さ

石原吉郎の詩の難解さ



清水 今の話のなかに卒論にとりあげる学生がでてきたとか、戦後詩の読み始めが石原吉郎であったとかいう学生さえいるという話がありましたが、一般に石原さんの作品は難解なものが多いということは言えると思います。難解というのは意味が繋がらない、論理が通らないということがあると思いますが、石原さんは北村太郎、嵯峨信之との鼎談「『サンチョ・パンサの帰郷』の周辺」のなかで、「ロジックがすらっとつながってしまうことが自分ではとても不満なんです」と言っています。それから、石原さんの作品の難解さに繋がるものとして、バルト神学の『ロマ書』ですね、非常にパラドクシカルな文章だといいますが戦前の『ロマ書』の読書体験も尾を曳いていると思います。渡辺さんもすでに、「重要なことを容易には語り難い場合の、あるいは直接的には語らないための、手本のような文体を作り出して見せたのである」と言ったり、「石原吉郎における特異さは、逆に晦冥を残したまま、書くまいとする一行に向かってにじり寄る凝縮への、スリリングな味わいにあった」とか、「とり出してはならない地点に向かって逆噴射しながら接近し、やがて最も近接した地点で噴射を強め、双曲線を描くように再びその地点から離脱して行く」というように書いていて、この難解さは石原さんの詩の本質に通じているわけです。たとえば、『望郷の海』の最後のページの「一九六三年以後のノートから」の一節に、「私の体験のなかには、思想化されること、一般化され、体系化されることをはげしく拒む部分があり、それが私の発想のもっとも生き生きした部分を形成しているのだ」とありますが、石原さん独特の詩法であり、生き生きした難解さという特徴でもあるわけですね。
渡辺 確かに『サンチョ・パンサの帰郷』を一読したとき、よくわからなかったし、エッセイも屈折したところの多い文体です。それは、体験の特異さということと無縁ではないと思うのだけれど、「一九六三年以後のノートから」の一節にあるような意識は強くあったと思います。普通の日常生活のなかでは考えられない特異な体験をした人には、ある程度共通な感覚だと思うんですよ。ただ、シベリアに抑留された日本人は六十万人といわれているわけで、ほかにもシベリアについて書いた人はたくさんいるわけです。僕はシベリアに関する文献数百点に目を通そうとして、途中で止めました。でも抑留体験者の手記の大部分は、石原さんの「一般化され体系化されるのを拒む」というのとは逆に、「自分はこんな体験をしたんだ。それをわかってもらいたい」という、いわばレポートになってしまっている。必ずしも文学作品である必要はないけれども、体験した事実の個別性だけが目立って、一読して、ああそういうことがあったんだな、大変でしたね、ということで、くり返し読むほどの魅力はない文章になってしまう。石原吉郎の場合は、特異な体験をして苦しみぬいたことを、一般化されることを拒むことで、それが表現のうえで難解なものとなって表われるという要素があると思います。
 それからバルトの影響も相当あると思いますね。バルト神学というのはクリスチャンにとっても難解なものと言われていて、論理の飛躍とかうまく繋がらない部分とかパラドクシカルな表現が多い。僕は原文は読んでいないけれど、二、三種の翻訳で読んで、確かに読み易い文章ではない。それともうひとつ、キェルケゴールの影響が強いと思う。バルトの『ロマ書』と前後して、キェルケゴールとかドストエフスキー、シェストフなども同時代に入ってきている。彼らの思想の影響もあると思う。キェルケゴールは、意識的に難解な文章を書いているところがある。ひとつの方法、表現技術として難解にしている。“伝達の弁証法”というやつで、これは石原吉郎の方法にも共通しているところがあって、自分の特異な体験をあっさりわかられちゃ困るということがある。「簡単にわかったという顔をしてくれるな」という意識が石原さんにはあった。
清水 渡辺さんは「石原吉郎と短詩型文学」という評論で、石原さんの俳句について分析していますが、「私の詩歴」という文章のなかで抑留者の句会に入ったことを書いたところで、「取締り側の判読を寄せつけない韜晦的な表現方法が生れた」とあります。このときの「韜晦的な表現方法」も難解さに繋がってきていますね。
渡辺 そうですね。彼が重労働刑と刑が決まって、シベリアの強制収容所に入れられたときは、肉体的に衰弱した時期であったわけですね。シベリア各地の収容所を経てハバロフスクに移されて、すぐには労働できる状態ではなかった。そのときはパンを得て飢えをしのぐということが最もさし迫った問題だったと思うんだけど、一定の体力が回復すると労働に回されるわけです。ちょうど、体力の回復と並行して、抑留者に表現の欲が出てくる時期がきた。彼も収容所内にあった句会に加わったのだけれども、ソ連側の検閲があるから敵を刺激するような表現はできない。それてどうしても韜晦的になる。俳句は日本独特の文学形式だから、もともと向こうの人間にはわかりにくい形式であるわけで、そのうえ更に韜晦的なつくり方をする。それが後年まで方法として身についたものとなったと思いますね。
清水 難解な作品の例として引いてみますが、『サンチョ・パンサの帰郷』の「馬と暴動」という詩の終りの十行に、

  二人の盗賊がはしるとき
  二人の間隙を
  一人の盗賊がはしる
  われらのうちを
  ふたつの空洞がはしるとき
  ふたつの間隙を
  さらにひとつの空洞がはしる .
  われらと暴動におもむくのは
  その最後の盗賊と
  その最後の空洞である

 とある。こういう書き方の作品がとても多いわけです。この詩の場合には「ふたつの間隙を/さらにひとつの空洞がはしる」というのが、とてもわかりにくい。僕には一本の筋の通った論理的説明をしろといっても無理という感じがするんですね。ただ、いろいろなことを考えることができる。一つの情景を思い浮かべることはできる。たとえば言葉に沿って意味を手繰っていくと、「間隙」という部分で全く意味不明の空白がくる。これはまさに空洞であるわけです。この詩句から思い出すものに晩年の歌集『北鎌倉』の「わが佇つは双基(ふたもと)立てる樹のごとき墓碑の剛毅の間(あはひ)とぞ知れ」というのがあります。「馬と暴動」の終わりの十行、渡辺さんはどう解釈しますか。
渡辺 これも、読解しようとすれば難解な作品ですね。読む人はそれぞれいろいろな受け取り方ができると思います。作品の読み方というのは、それでいいのだと思うし、様々な読み方ができることが名作の条件だという考え方さえあるんですから。
「馬」「暴動」「盗賊」という三つの素材を出した舞台は、どう見ても平和な情況ではない。乱世の兆候が見えるとでもいうべき情況の設定と見ることができると思います。「軍隊」ではなく「盗賊」であるし、馬も三頭だから、戦争というほどのものではないと言えるでしょう。例えば「暴動」とでも呼ぶべきアクションが表面化する際の、初発のイメージとでも見ていいように思います。その暴動という行為へ向かうのは、盗賊によって操り易く調教されている左右に並ぶ二頭の馬ではなく、不意に跳び出してくるダークホースなのだ。それにつれて走り抜けるのも、第三の盗賊であり、彼の内部には、深い空洞がある。そしてこれらは、「われら」という一人称複数代名詞の内面のドラマとしてイメージされているということですね。「馬」―「盗賊」―「空洞」は入れ子式の構造で、ほとんど等大の相似形のものと見て良いと思います。これが作者の思想的な姿勢と関連していると見れば、〈二頭の馬〉は、〈位置〉とか〈条件〉というものと見ることができると思いますが、ここでは整った形式とリズムとイメージ、それを読むことでいいのではないでしょうか。

|
石原吉郎 没後四年 目次| 前頁(生前の石原吉郎との関わり)| 次頁(〈断念〉)|
Shimirin's HomePage へ
うろこシティ表紙へ