生前の石原吉郎との関わり

生前の石原吉郎との関わり



清水 石原吉郎は昭和五十二年十一月十四日に亡くなり、今年の十一月十四日で没後四年になるわけです。最初に、生前の石原吉郎との関わりについて話したいと思います。
 僕の場合は、投稿した詩が彼に選ばれて、それがきっかけになって詩を書き始めた。それから、『海への思想』に収められた渡辺さんとの対談「単独者の眼差」に編集者として立ち会ったこと、この二つが生前の石原吉郎との関わりです。
 この対談集の「あとがき」で、「とくにさいごの渡辺石夫氏との対談で、ようやく抑留体験から遠ざかりつつあることに気づかされたのは貴重な経験であった」とあって、石原さんから渡辺さんは晩年の理解者だと見られていたと思うんです。
渡辺 石原さんとは、ずいぶん大勢の人たちが色々なかたちで関わりをもったと思います。清水さんのように投稿作品を石原さんに選ばれたという縁の人も多いと思いますが、石原さんが選者になってからのことだから比較的若い世代だと思う。そういうこととも関連があるのだろうけれど、石原さんが亡くなった後の雑誌のアンケートなどを見ても、自分に影響を与えた作品とか、戦後詩のなかで名作は? というような質問に、石原吉郎の作品と答えている若い詩人が非常に多い。大学の卒論にも石原吉郎をテーマにする学生がでてきている。知り合いの大学の教師から聞いたのですが「自分たちにとって現代詩とは石原吉郎から始まっている」とまで言う学生がいるというので驚いたことがあります。
 晩年の理解者と言われたけれど、直接会ったのは対談のときだけで、個人的な付き合いというのは全くなかった。訪ねるように言われていて、その気になった頃は、歌集『北鎌倉』に見られるような、混乱の時期でした。僕の場合には、最初から石原さんの後期の作品について書いたわけで、自分とどう関わるかとか、自分の立場からして評価を左右するというような書き方ではなく、そこに何が書かれているか、作者はどんな方向に顔を向けているかということを、作品に即してノートしてみただけで、それが当の石原氏には、理解する人間の一人というふうに受けとられたようですね。後期の作品については、否定的に見る人が多くなっていたときでしたから……。『サンチョ・パンサの帰郷』は、出たときにすぐ買って読んでいるんですが、そのときにはあの詩集が僕を強く惹きつけたわけではなかった。雰囲気とかリズム感とかは掴めたんだけど、理解しにくい部分が多くて、その後ずっと僕は石原さんの作品は雑誌での拾い読みしかしていないんです。『望郷と海』は再読すべき本だと思って、読書ノートをとったりしていたけれど、作品は晩年に近くなったころから改めて読みだして、たまたま『北條』のことを書く機会があって、それを石原氏夫妻が好意的に読んでくれた。さらに対談の機会があったりして読み直すというかたちで関わっていったわけです。

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