[2]フォト・ジャーナリスト

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 足立亮一の実家は東急新玉川線の用賀駅近くで生花店を営んでいる。創業は明治初期というから、もう百年以上もこの土地に根を張って暮らしている。当時の「足立花店」も「フローリストADACHI」とはなっているが、その佇まいは店の裏に回れば、当時の面影を少しは残していて、亮一の曾祖父がはじめた幾種類かの百合と蘭の古ぼけたハウスがある。この店は亮一の父親で四代目になる。老舗でもあり、得意先も多く、何度かの不況も家族力を合わせて乗り切ってきた。彼、亮一は二人兄弟の長男だから、両親は当然のように亮一が家業を継ぐものと考えていた。しかし、彼は少年のころからの夢でもあった写真家を目ざして、高校卒業と同時に専門学校に入り、卒業後は、ある高名な報道カメラマンの助手として7年、その後は写真週刊誌の専属カメラマンで3年、その後独立した。彼は専門学校へも両親から援助を受けず、昼間は学校、夜はホストクラブのホストとして学費と生活費を捻出した。そして35歳になる現在まで、同じ都内に住んでいながら、実家に足を向けたのは祖父母の葬儀と三歳違いの弟亮二の結婚式の時の三回しかなかった。
 六年前に結婚したその亮二も、気立てのいい女との間に一男一女を設けて幸せな32歳の跡取りとして平凡な暮らしを営んでいる。それに較べて俺はいつまでこんなヤクザ稼業に身を窶しているんだろうと亮一は思う。フォト・ジャーナリストの夢は何処へ行っちま
ったんだ。タブロイドのヌード写真と、貸しスタジオでのスチールとスナック菓子やらインスタント・ラーメンのパッケージ、コンドームの箱などを自分で並べてレイアウトして、そんなものを撮るために俺はカメラマンになったんじゃない。亮一は自分があの東南アジアで見た一人の少女になって、血まみれになっているのではないかと思った。あんな栄光は俺にはない方がよかった。あんなものさえなかったら、俺は一介の写真屋で何の不満もなかったのではないか。それは彼が写真週刊誌の専属カメラマンだった29歳の夏だから、今からもう6年前になる。それまで彼が助手を務めていた報道カメラマンのT氏が行く予定だった東南アジアのある国に、T氏が急病で行けなくなり、その代役として彼が『東南アジアは、いま』という東亜テレビの報道番組のチーフ・カメラマンに抜擢されたのだった。
 もちろん、T氏の口添えがあってのことだ。それは貧困と飢餓というお定まりの映像を名のあるルボライターの眼を通して視聴者に訴えかけるという、これもお定まりの企画だったが、視聴率は悪くなかった。そして彼がその仕事の合間に撮って「日本写真大賞」に応募した5枚の組写真が栄光の大賞に輝いたのだった。だが、それは全くの偶然とも言えるものだった。四、五歳と思われる一人の女の子が、用足しでもしていたのか、彼らのキャンプのテント近くの茂みから出て来たのだ。カメラを手にしていた彼は、たまたまその女の子に向けてシャッターを切った。その時である。女の子を追うようにその茂みから一頭のサイが躍り出て、角の先で彼女を一撃した。
 女の子はその場に倒れ、右肩からは血が出ていた。そして亮一の方を見て、手を伸ばして何か叫んだのだった。亮一はそこで二枚目のシャッターを切った。迫真の演技という言葉があるが、どんなことも本物には及ばない。ファインダーを覗きながら亮一は感動していた。サイが角で刺した瞬間の絵からは、少しだけ時間のズレはあったが、俺はシャッター・チャンスを逃していない。血を浴びて茂みに帰っていくサイも撮った。
 押さえで一枚、もう一枚と撮った。手が震える。俺は脇を固めて、手ブレを抑え、サイの尻が消えて行く茂みも撮った。テントに戻って警察に連絡したのはそれからだった。亮一はその子がヘリで運ばれる絵を、周囲でなびく尖った草の葉をヘリをあおるようにして撮り続けた。これがジャーナリズムだ。これがいのちというものだ。亮一はそれを伝えることが報道カメラマンとしての使命であり義務だと思った。平和な日本ではこんなことは起こらない。だが、真の生命はこうしていつも危機に晒されているのだ。平和ボケのわが祖国の人々よ。帰国当日、亮一は空港のロビーで送りに来た現地のテレビ局の担当者からその女の子の死を知らされた。あと15分でも知らせが早ければ、一命は取り留めただろうということだった。しかし、彼女の死には意義がある。訴える力がある。いや、そういう死もあっていい。亮一は心の中で繰り返した。
 報道写真家として衝撃的なデビューを果たしたものの、亮一にはその大賞『茂みの中の恐怖』を超える写真は撮れなかった。その後も国内外で事故や災害に駆り出され、異常な絵を追い求めて撮りまくったが、リアルタイムで家庭に流される数々の映像。数々の恐怖。数々の衝撃。数々の戦慄。そうした前では彼のスチール写真にはおのずと限界があった。亮一は世間から忘れられた。
 たまに母親から電話が入る。お袋ともずいぶん会っていないが、声だけ聞くと母も老けたと亮一は思う。そして子どもの頃に遊んだ砧公園や馬事公苑が思い浮かんでくる。弦巻中学の生徒だった頃は中央図書館や郷土資料館にもよく行ったものだ。あの頃の俺は、学校の成績も良かったし、親にも逆らわなかったなと、亮一は遠い眼で思う。貸しスタジオでその日最後の1カットを撮り終え、亮一はスポンサーの若い営業マンが、撮影後は処分してくれて結構ですと言って置いて帰った缶ビールのプルトップを引いた。温い液体が喉を流れて行く。その缶を12個、ピラミッドのように積み重ねて撮った後だった。もう一缶、亮一は飲んだ。そして、カメラ、ストロボ、三脚脚立、フィルム、スクリーン、トレペなどを片付け、剥き出しの電源スイッチを切りコンクリートの打ちっぱなしの地下のスタジオを出た。写真といえば、あの雨の夜の女はどうしただろう…。ふと、そんなことを思った。酔いも手伝って、亮一の足は夜の街のネオンに向いて行く。
 スタジオを出るとき、亮一は車にしようかタクシーを拾おうかと一瞬迷った。カメラ機材を自分の青いクラウン・マジェスタに積んだからだった。明日の仕事は週刊誌のグラビア撮影で湘南ロケだ。亮一の住む荻窪からスタジオのある南浦和まで来て、そこから行くのは面倒である。亮一は車に乗ってルーム・ミラーに自分の顔を映した。ビール二本なら大丈夫だろう。とにかく今度捕まったら間違いなく免停になる。車がなければ仕事にならない。
 結局亮一は自分で車を運転し、その車を新宿区役所裏のパーキングに停めた。そこは日本一の歓楽街で、狭い一角に飲食店が犇めいている。明日は早いから軽く一軒飲んで、理佐にでも会って帰るか。亮一はそう決めると歌舞伎町二丁目の雑居ビルの一階にある日本料理店に入り、一時間ほど時間を潰した。そして店を出る少し前に携帯電話で「マーメード」に電話を入れた。「15分ほどでご用意できます」 耳に取り繕った和夫の声が聞こえてくる。「俺だよ」「あッ、亮さん?」 和夫は数カ月前までオカマバーに勤めていたが、客とトラブルになり、いまは「マーメード」のフロント係をしている。

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