[1]ソバージュ

[1]ソバージュ



 伴野真美は前夜からの雨が漸く上がった街を見下ろしている。真美のマンションは中野区の高台にあり、彼女の住む8階の窓からは、美しい夜景が眺められる。そのことも売りの一つになっているマンションだった。数時間前、やはりこの総ガラス張りのリビングルームから真美は一台の車を見送っていた。青いクラウン・マジェスタ。その車の尾灯が、パッパッパッと五回ほど点滅した、と真美は思う。それは、「また逢おう」なのか「よかったよ」なのか、それとも「愛してる」なのか…。それともどれも違うのか。いや、点滅なんかしなかった。したとしても、ここからそれを確認なんてできやしない。私はどうしてあの人に私の携帯電話の番号を教えなかったのだろう。私はそんな軽い女じゃないと真美は思う。それでいて、車を停め男の車に乗り、あろうことか部屋に上げ、初めての名前も何も知らない男に身体を開いてしまったのは、私が軽い女だからではなく、それが私たちの運命的な出会いだったのだ、あの雨がそう導いてくれたのだと真美は思う。運命的な出会いなのだから、いま男のことを何も知らなくても、きっと神様がまた逢わせてくれる。だけど、本当にそうだろうか。
 滲む夜景がじぶんの眼の中に泪となって染み込み、頬を濡らす。
「あの人に、逢いたい…」
 開いたまま寝室には、まだ男が寝ていてね自分を呼んでいるような気がする。
「また、逢えるよね?」
 私がそう訊いた時、あの人は逢えるとも、逢えないとも言わなかった。そして別れ際に私の唇に軽くキスして「おやすみ」とだけ言ったのだ。雨の夜の風のような人…。真美は身体の火照りの鎮めるように、もう一度浴室に行き湯船に身を沈めた。大きな乳房と、涸れることのない湧水のような自分の秘部が厭わしい。そして、その湧水の出口に蓋をするように、自分の指でそっと触れた。側にあの人がいるような気がする。
「もっと…、もっとよ…」
 湯の表面が波立ってくる。私は確かに満たされた。満たされたけれど、やはり、満ち足りない。深く、さらに深く真美は指を容れ、そして果てた。あの人に、逢いたい…。

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 伴野真美が、高校二年生の冬、彼女の両親は協議離婚した。原因は父、吉野啓三の事業の失敗で家庭内にヒビが入り、父は弟の啓介を連れ、真美は母親と共に家を出、母親の旧姓である「伴野」姓を名乗ったのである。しかし、その母も真美が女子大に入学した年の夏、交通事故で他界した。だから、真美はいま独りぽっちだった。母の実家のある越後湯沢に母の納骨を終えた真美は、これからは誰にも頼らず一人で生きて行くんだと心に決めた。それからもう六年の歳月が経っていた。幸いにも母の事故で得た保険金が三千万円ほどあり、その一部をこのマンションの頭金に当てて、真美は新しい生活を始めたのだった。女子大を出て二年半。真美はいま、政財界のお歴々が集う秘密の会合とか懇親会のコンパニオンをやっていた。人によっては代議士たちと寝ることで、金品を得ていたが、真美はそこまでやったことはなかった。とは言っても全裸で踊ったり、疑似でオナニーショーのようなことはやっていた。酒の入った男たちの前で、いわゆるストリップショーまがいのことだと思えばいい。代議士とは言え、男たちはみな好色で、私の身体を舐めるように、そのトカゲかヘビのような視線を送ってくる。でも、私は決して身体は売らない。
 真美は青いクラウン・マジェスタのカメラマンを思った。貴方で二人目よ、私。すれっからしじゃないわ。浴室から出て、真美はまた寝室を見た。白いシーツがしわになっている。そこに男の残した印がシミになって残っている気がした。眼を閉じると、男の灼けたような硬度のある太い棒が自分の口を、そして自分の合わせ目を挿し広げて突き刺さってくるようだ。また濤がうねってくる。終わりのない濤。ベッドで真美はのけぞった。そしてまた声が出る。くり返し。くり返して真美はやっと眠りに就いた。夢の中でも真美は男を銜えていた。男を扱き、激しく上下させ、濡れてきた男を口で拭い、また扱き、迸る男の熱い樹液を真美は嚥下した。口に男の生暖かい粘液が広がり、喉をゆっくりと滑り落ちていく。
「真美、ほら、ここに出せよ」
 夢の男が言う。「ふふふっ、呑んじゃったわ」
 夢の女が言う。
 カーテンの透き間から、陽がこぼれていた。時計を見る。もう、午後の二時に近い。
「急がなくっちゃ」
 真美は大きくひとつ伸びをして、ベッドから起き上がった。シャワーを浴び、コーヒーを飲み、メンソールのタバコを一本吸って、また今日も代議士たちの前で踊らなくてはならない。窓を開けると爽やかな五月の風が真美のソバージュの髪を撫でた。

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