プロローグ

プロローグ



「い、いくよーッ」
「ダ、ダメぇっ」
「で、でもぉ」
「い、行かないで!」
 女が俺の左手を強く握って来る。
「だめよッ、いまイッちゃ」
 仕方なく俺はトップに入れていたギアをサード、そしてセカンドに切り替えて減速した。前を行く車のテールランプが遠のいて行く。そう思った瞬間、そのランプが停止し、再び次第に大きくなる。側で警官が運転席から降りた男に詰問しているふうだった。
「ねッ? ここ、よくやるのよスピード違反の取締り」
 女は俺の横顔に言った。ここで捕まったら俺は免停になってしまう。
「助かったよ」
「そおでしょ何かお礼してッ」
 女と会うのは今夜が初めてだった。フリーランスの俺は出版社にベタ焼きしたポジを3本納めて来たが、その帰り道、雨の中をずぶ濡れで歩いていた女を拾ったのだった。手を上げて俺の車を止めたのは女の方だった。そして女の住むマンションの近くまで来たところで、その取締りに遭遇したのだった。
「ねぇ、貴方、カメラマンなの?」
 女は車の後部座席のカメラボックスやら三脚やらを見て言った。
「ああ、パパラッチ。芸能人のスキャンダルばかり追っかけてるね」
 俺は自嘲気味に女に言った。
「撮って!」 
「撮る?」
「そう、私のヌード」
「ヌード?」
「とにかく、上がって。お茶でも入れるわ」
 俺は女のマンションの地下にある駐車場に青いクラウン・マジェスタを入れて、女と一緒にエレベーターに乗り、8階の女の部屋に行った。雨に煙る夜景が奇麗だ。左に池袋のサンシャイン60が見え、右手には新宿の摩天楼が屹立している。もちろん、俺はまだ屹立していない。女の部屋には35ミリのフィルム一本とニコンのカメラを一台だけ持って行った。
「ねぇ、コーヒーだけど、ミルクとかお砂糖は?」
「何も要らないよ」
 ミルクは俺のでどうだ、と俺は言わない。だけど、今夜は、いきなりそうなりそうな気がする。女がコーヒーを二つ俺の前に持って来る。俺はいま、三部屋ある女の部屋のリビングにいる。この総ガラスの南の窓から夜景を見ている。
「貴方、名前は?」
「君は?」
「私? バンビ」
「…バンビ?」
「そうよバンビ」
 女は俺の名を、それ以上は聞かなかった。
「ねぇ、ヌード、撮ってくれるでしょ?」
「…ああ」
 女はリビングの左の部屋を開けた。そこは寝室に使っているらしく、セミダブルのベッドが置かれている。
「ここで、撮って」
 そう言って女はレモンイエローのスーツの上着を取り、白いブラウスのボタンを外した。それからスカートを脱ぐ。下着は白だった。舗道で男の車を手を上げて停めるような女が、そんな下着を付けていることが俺には意外だった。女が俺を見た。
「やっぱ、止めとこっかな」
「…別に嫌なら俺はいいよ、君が言い出したことなんだから」
 ブラジャーとスキャンティだけになった女が俺には痛々しく見える。
「着なよ」
 そう言った俺に女は「お風呂、入れるわね。そしたら気分も落ち着くかも知れないから」と、その下着姿のまま浴室に消えた。風呂の湯が浴槽に勢いよく流れ出ている音がする。俺のも勢いがいいゼ、と俺は言わない。そして戻って来ると「やっぱり後で撮ってね」と言う。何故そんなに自分のヌードに拘泥するのだろう。俺がそう思っていると、
「私ってヘンでしょ?」
 と俺の頭の中を覗いたように女が言った。
「私、夢だったの。若いうちに自分のヌード撮るの。だって、もうすぐ25になっちゃうから」
 そんなものかと俺は思った。
 やがて湯が浴槽に満ち、女は浴室に消えた。俺は冷えたコーヒーを啜った。しばらくして、浴室から声がする。
「ねぇ、貴方も来たら」
 俺が浴室に行くと女は「お化粧落としちゃったから、恥ずかしい」と言って俺を見た。
 よく見ると女は意外と美形だ。俺が前に追っかけて結局スキャンダルとなり芸能界を去って行ったアイドル歌手の佐山加奈に似ていた。
「ねッ? もうすぐお婆さんになっちゃう身体でしょ? カメラマンさん」
 そうは言ったが女の身体には贅肉がなく凹凸もくっきりしている。
「胸はいくつ?」
「88、位かな」
 下腹の毛も濃くはないし、ツンと張った胸の形も悪くはない。
「いい、写真撮れるよ」
「本当? だと嬉しいな、バンビ」
 女は子供のように肩をすくめて俺を見た。女の浸かっている湯船に、俺は下だけ洗って割り込んだ。
「バンビって?」
「私の名前よ」
「まさか、本名じゃないだろ?」
「どうして?」
「…いや、別に」
 俺の顔を触ったり、俺の髪の毛を弄っていた女の手がそこから離れ、湯の中に潜っていく。
「ねぇ、いいこと、してあげる」
 女の唇が微かに緩んで、女の眼が俺の眼を見る。そして女の指が、俺のものをまさぐってきた。
「…元気になってきたわ」
 女の額に汗が浮いている。俺は両手で女の顔を引き寄せた唇が重なると軟体動物のような舌を入れてきたのは女の方だった。眼を開けると女は眼を閉じたまま、俺の舌を吸っている。俺は自分の漲って来る男を感じた。左手で女の髪を撫で、右手で女の乳房を暫く揉み、それからその下腹に移動させた。そして人差し指と中指を容れた。女のそこは蜂蜜の瓶の中に指を入れた感触に似ていた。俺の舌を吸っていた女の舌と唇が離れ、声が出る。
「だ、だめッそれ以上は、だめよッ、お、お願いッ」
 懇願するように震える女の声が俺の耳朶に熱い息になって掛かって来る。
「何が、だめなんだ? こんなになってるじゃないか」
「…だ、だから、だめなの、わたし」
 女も俺のものを握って放さない。男と女は、どうしてもいつもこうなってしまう。そのたびに俺は何故か深い寂寥を味わってきた。
「ねッ、ベッドで、ベッドで、…して」
「…いいよ」
 だが、ひーひー言わせてやる、と俺は言わない。
女の身体を拭いてやって、そのままベッドルームに俺は抱いて運んだ。
「貴方が、好きッ」
「俺が、か?」
 俺ではなく俺の此奴が好きなんだろうとも、俺は言わない。せめて今夜はバンビの恋人でいてやろうと俺は思う。俺を視た女の瞳が濡れている。ベッドに下ろすと女は俺の上に身体を重ねて、またキスして来た。
「貴方みたいな人が私、タイプなの」
「タイプ?」
「そう。貴方、女に冷たいわ。でも、…優しい」
 そう言って女は俺の乳首を掌で愛撫し、そこに唇をつけて吸った。唇は胸や腹にゆっくりと、丁寧に降りて行く。臍を撫で、太腿にも唇を這わせて来る。女の好きに任せよう。俺は眼を閉じた。ゆっくりと充足感が満ちてくるのがわかる。やがて女は右手で包み込むように俺自身を握り、軽く扱き、そして躊躇いがちに唇を付けてきた。眼を閉じていても、それが俺の脳髄に伝って来る。そして、口を開き、窄め、俺自身を銜えた。粘り気のある女の口腔が、ぴったりと俺を締めつけて来る。そして放して、言う。
「気持ち、いい?」
「ああ、とてもいい」
 微笑む女の顔が可愛い。
 女の髪が俺の下腹を匿す。その髪を掻き上げて、女が、また銜える。次第に俺は終焉に向かう。
「だ、だめだよ」
「えっ?」
 それ以上口で愛撫されていたら俺は射精してしまう。そう告げると女は「このまま、出して」と言った。それではお言葉に甘えてと、俺は言わない。女の口から俺自身を離すと、俺はいままで俺のペニスを銜えていた女の唇に舌を入れて吸った。
 そして、今度は女が俺にそうしたように、女を開いた。女の太腿が震える。俺は丁寧に女を舐めた。女のそこは、先刻まで降っていた細い、それでいて粘り気のある雨のように濡れていた。俺の口中に女の陰毛が一本、その粘液とともに入って来る。俺の頭の上の方では女の断続的な喘ぎ声が続いている。
「ねぇ、もうだめッ。お願い」
 何がお願いだと、俺は聞かない。こういう場合、大抵はそう言うことになっている。
「ほ、欲しいの」
 勿論、何が欲しいかとも聞かない。こんなときに洋服が欲しいという女は稀だ。女が右手を伸ばして、俺を握る。
「ねぇ、これ、これ頂戴ッ」
 懇願する女を俺を視た。そして一瞬、この雨の夜の中で、何組の男と女がこうして抱き合っているのだろうと思った。男は女を、女は男を抱き締めて、どれだけ人生の辛さを忘れようとしているのかと思った。一瞬だが、そう思った。俺は女の両脚を広げると、そこに俺自身をあてがい一気に沈ませた。俺の右耳に女の掠れた声ともつかない息が掛かってくる。俺は抜きかけ、俺は容れ、また抜きかけ、容れることを繰り返す。男と女は、こうして擦り合うことで億万年も生きて来たのだ。女の口の中に口を入れ舌を吸い、離して、女の左の、そして右の乳首を吸った。
 やがて女の身体が震え、達し、また震えては達して行く。何度目かに女が大きくのけ反って達したとき、俺は俺自身を引き抜いて、女の腹に迸る樹液を放った。女の腹からも、臍からも、俺の樹液が垂れて白いシーツに染み込んでいく。
「また、逢えるわよね?」
 俺の下で女が大きく瞳を開けて聞いた。そんな言葉を俺は何人の女たちから聞いたことだろう。35歳、独身、フリーランスのカメラマン。女はまだ写真を撮ってくれと言うのだろうか。ベッドサイドにはいくつもの縫いぐるみが置かれていた。長い一日が終わろうとしている。

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