ピータンはやかわあやね
おでんの入っている鍋の中から
ここ数日煮込みっぱなしのゆでたまごを取り出してみる
おでんの中に入っているゆでたまごのことを
「ばくだん」というのだが
幼い頃から私はこの「ばくだん」が大嫌いだった
ふと気がかわったのはつい先日のことで
バイト先のコンビニで
おでんの鍋の中でいくつかのゆでたまごがきっちりと
何も文句を言わずに並んでいるのを見た時に
今度のおでんにはゆでたまごを入れてみよう
と
そんな気持ちにさせられたのだ
ゆでたまごの中味の黄味まで
色の染まったばくだんを食しながら
いつしか私は
幼い頃食べたピータンの濁った透明な色形を思い出していた
ピータンとは中国料理に出て来る卵のことで
白いはずの白味は茶色に変色し
どこまでも透明に澄み切っている
どうしたらこんな卵が出来るのか私にはわからないが
それでもその美味しさに箸をのばさぬはずはなく
これはピータンをつくるための壺ですよ
と
誰かに見せられた記憶があるのだが
それは大層美しく
極彩色に彩られた壺の前で
たまごは何を思いながらピータンへと変化してゆくのか
それがとても不思議であったりするものだ
北京ダックにしてもピータンにしても
美味しいものは残酷だ
人々はその残酷さゆえにその味を愛で
選ばれたものとして存在することに
喜びと憂いを見い出したりもするのだろう
幼い日に食べた北京ダックもピータンも
今ではもう存在していないが
それでも遷り往く風景に
昔を懐かしく思い出すのは何故だろうか
と
住み慣れた幼い頃の我が家へ
望郷の念を寄せてみては我を想う
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