エピローグ

エピローグ



 その日、世田谷の実家に行くという亮一を送り出して、真美は近くの産科医院を訪ねた。真美の子宮の中では確実に一つの命の芽が育っていた。医師は3ケ月に入っていると真美に言った。亮一は何て言うだろう…。きっと、大事にしろと言うに違いないと真美は思う。それから区役所へ行き婚姻届の用紙を貰った。自分のこのお腹の中に亮一の赤ちゃんがいる。道行く人々はきっと私をヘンな女だと思って見ているのだろうと感じながらも、真美は自然と零れてくる笑みを抑えられなかった。男の子だろうか、それとも亮一に目元の似た女の子だろうか。どっちだって私と亮一の子だ。きっと可愛いだろうなと、真美はそっと自分の腹に手をやる。まだ動くはずのないそこで、小さな命が自分を蹴ったような気がした。耳を澄ますと、ママという声が微かに聞こえてくるようだ。
 家に帰って、真美はリビングのテーブルに婚姻届の用紙を広げた。これを書いて、捺印して、また区役所に届ければ私は正式に亮一の妻で、亮一は夫で、私たちは世間から夫婦として認められるんだ。真美は振り返って。こんな幸せな日がこれまでの私にあっただろうかと思った。父の事業の失敗、両親の離婚、母の死…これからは幸せにならなくちゃいけない。神様がいないはずはない。何処かできっと見ているわ、そうでなければ何のために私は生まれ、何のために生きて行くのか、わからないじゃないの。真美はそう思いながらも、こんなにも幸せでいいのだろうか、何かが音立てて一気に崩れ去るのではないかと不安だった。だが、そんな要素はどこにもない。亮一と夫婦になれて、子ができて、それだけのことではないかと真美は気を取り直す。何千何万という男と女がそうして暮らしているではないか。それならば、その人たちはみんな不幸にならなくちゃいけないことなる。私はただ愛する男と一緒になって、その人の子を産むだけ。祝福されることがあっても、バチなんて当たりっこないわ。もたげてくる不安を頭を振って真美は消し去った。きっと亮一は実家で食事をして来るだろうと思いながら、キッチンに立ち、簡単な料理の支度を始めた。時計を見ると8時を少し回っている。その時、インターホンが鳴った。真美は濡れた手をエプロンで拭き、リビングにあるドアホンの受話器を取った。「山田ベーカリーですが」
 若い女が小さな画面に浮き出て来る。
「あ、はい、いま開けます」
 真美は長い廊下を急いだ。そして玄関のドアロックを外す。そこには一人の若い女が立っていた。「あの、これ、ご主人がご注文されたケーキです」
 そう言って四角い箱を真美に手渡した。「代金は戴いておりますので。また、よろしくお願いします。ありがとうございました」
 リビングに戻って包装紙を剥がし、ケーキの蓋を開ける。真美は亮一の痛いほどの心遣いを感じた。「亮一ったら…」
 明日は早朝から終日ロケで、ひょっとしたら泊まりになるかも知れないと言っていたから、きっと今夜帰ってきて私の誕生祝いをしようとしたんだわ、と真美は思った。ケーキには「真美ちゃん、誕生日おめでとう。」と搾り出したチョコレートで書かれていた。これから私が食べるものは、お腹の中のあなたも食べるのよ、赤ちゃん。お父さんが帰って来て、あなたのこと知ったら驚くわね、きっと。私のお腹に耳を当てて、あなたが何処にいるのかって探すのかしら。真美はふたたびキッチンに立ち、サラダボールに一杯の野菜サラダを作り始めた。そして亮一がたまに取る鮨屋に電話をして、10時頃に握鮨を二人前届けてくれるように頼んだ。外はひどい雨だった。
 真美はリビングの総ガラス張りの南の窓から、その雨に煙る東京の街を見ていた。あの日、亮一もこうして見ていたわ。彼は何を見ていたのだろうと思う。ネオンサインや家々の明かりのひとつひとつが宝石のように輝いている。この雨の空の下でみんな生きている。辛くても、悲しくても、みんな生きている。そしていつか、こうして幸せに包まれるのだ。私は亮一と、生まれてくる子と生きていく。大きな通りを行き交う車のテールランプが蛍の尻ように点滅している。ああ、もう少しで亮一が帰ってくる。お鮨を食べて、ケーキを食べて、ワインを飲んで、私はまた亮一とするのだろう。でも、もう激しいのはだめよ、亮一。少しだけね、あまり突かないで。亮一を待つ間の時間が真美にはもどかしい。もどかしいが愉しい。真美はもう長いこと亮一と暮らしている気がした。あるいはこの世で出会うもっと前、前世から一緒だったとも思える。そして来世も、きっと亮一と一緒に暮らすだろう。そうして真美はいろいろなことを、まるで小説家か詩人のように夢想していた。そしてふたたび、玄関のチャイムが鳴った。お鮨屋さんかしらと真美は思った。もしかしたら亮一?
「はーい」
 足立亮一と伴野真美が暮らすマンションのドアの外には三人の男たちが立っていた。
「先生、どうも私は仕事とは言え苦手でしてね」
 と白髪混じりの制服姿が言う。
「いや、同じですよ、僕だって」
 と背広姿の男が答えた。「特に若い人の場合は、不憫です」
「そうですね」
「まぁ、苦しまなかっただけいいのかも知れませんが」
「ちょっと確認してもらうのは、辛いことです」
「しかし、先生。あんなふうにダンプが飛び出してきて、その下に潜ったんじゃ、一たまりもありませんやね。私も事故現場はずいぶん見て来ましたが、今日のは…」
「いや、僕もずいぶん検死はしましたが」
 その二人の男の後ろで血のついた白い小さな箱のようなものを持って足を震わせているのは亮一の親友の三村だった。「しかし先生、よく降りますね、雨」
 年老いた警察官がそう検死官に言って三人は暗い空を見た。
 もし、亮一なら、お父さんお帰りなさいって言おうかしら。真美は驚く亮一の顔を浮かべながら、もう一度「はーい」と明るく大きな声で玄関に向かって言った。そして重い金属のドアロックを軽快にカチャリと外した。

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